芸術の媒介により自分の存在意義や喜びを見出す人々は、少なからず存在していると思います。
絵画・音楽・文学などの美の世界の中でも、特に絵画をはじめとした創作・創造から得られるもの、アートが人へ与えるものとはどういうものでしょうか?

「太古の時代の遺蹟にすら人間の芸術的な心の発露の見られることからも明らかである。」と神谷美恵子先生も著書でのべておられますね。
ラスコーやアルタミラの洞窟壁画からは、馬や山羊など数種類の動物や人間、その他幾何学模様が描かれていますが、ただ単に伝達することではなく、その時代に生きた人、制作に携わった人の感情や意思が含まれています。
物の形や色を表現する喜びは太古の昔から感じられているものなのですね。
その時代の表現は、霊的・儀式的な意味合いが極めて大きいといえますが、いずれにしても、人は美しいものを感じそれを得る欲求と、美に対する価値を見出す事に幸せを感じてきたといえるのではないでしょうか。
それは人間の根底にある欲求といえるかもしれません。 

ラスコーの洞窟壁画に描かれた動物

アルタミラ洞窟壁画

パブロ・ピカソは、「だれでも子どもの時は芸術家であるが、問題はおとなになっても芸術家でいられるかどうかである。」と述べています。
幼い子どもは、白い画用紙の上に現れるさまざまな線や形や色彩の不思議に心を奪われます。
意図的ではない偶然の線や形や色彩は、自らの手の動きによって表されることを知ります。
そのような活動を続けていくうちに、「こうしてみたらどうなるのだろう。」「次はこうしてみよう。」という気持ちが湧いて出てくるのでしょう。
そこには新しい発見、新しい物の見方、新しい表現への道が開かれているのです。
これは幼い子どもの特性といえるのではないでしょうか。
大人になるにつれ、現実の世界に生き始めるとそうはいかなくなってきますよね。
天才ピカソは、「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまでくるのにずいぶん時間がかかったものだ。」と述べているように、子どもの絵から感じる純粋さであったり、利害やしがらみを超えたものが真理であると考えたのではないでしょうか。

 ものを作るということの醍醐味は、やはり制作途中にあります。
仕上がればうれしく、完成した作品への愛着も制作の間の楽しみや苦しみがあってこそです。
楽しいだけの制作も時にはストレスの発散としては有効ですが、意外にそのような作品は、愛着も薄いような気がします。
生み出すために苦労したり、さまざまな困難があったほうが自分の存在意義が際立ち、達成感で心が満たされるのです。

 「現代社会においては、人は自然から離れすぎていて、心とカラダの健康が保てない世の中になっている。
これは都会だけのことではない。食べるために狂奔しなければならない時代には、生きがいについて考えるゆとりがなかったが、神経症の数は少なかった。」
と神谷美恵子先生の著書に記されていました。
 現代社会においては、ゆとりがありすぎるせいか、人の内面に必要以上に入り込んでしまうことが多いようです。
「人間が自然の中で自然に生きる喜び、自ら労して創造する喜び、自己実現の可能性など、人間の生きがいの源泉に出会ったものを奪い去る方向に向いている」と記されています。
自ら労して創造する喜びを可能にするのが芸術の役目であると考えます。
そして「豊かな人生を送るため」「生きる喜びを味わうため」の一助となるべく芸術は存在するのです。
そしてそれは、ひとりひとり必ず違うものでなければなりません。
心の内側の叫びであったり、秘めたる思いを表に現すことは、ひとりひとりが違うものになるのが当たり前で、それが自己を開放することになります。
その行為が自分の存在意義や、喜びに結びつくのではないでしょうか。

参考文献

「絵画の教科書」谷川 渥 監修 日本文教出版 2001年
「生きがいについて」神谷美恵子 みすず書房 2004年